2008年08月15日

祈り

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過日、HYT3(ピースピットハーフイヤーシアター3)の公演のとき

應典院のご住職からお聞きしたおはなし。


ご住職はよく、ホスピスに慰問されるそうだ。

そこでは、ただただ患者さんと話をするだけです。

治療の終了した患者(余命6ヶ月以内)を対象とし、

がんの苦痛や症状を和らげ、不安な心のケアをする医療施設。


ある日、患者さんが言ったそうです。

『私は今まで、“祈る”という行為は自分のためにするのだと思っていました。

でもそれはちがうな…と思ったのです。』


ご住職は一瞬、えっ?と思ったそうです。



『“祈る”というのは、だれかのためにすることだと思います。』


数多く患者さんと話をしてきたご住職も、つい涙が出そうになったそうです。



それはたとえば、

墜落していく飛行機の中で、家族にメモを残すことであり

地震で崩れた建物の下、傷だらけの手で携帯電話を握りしめることであり



すべてを達観した最期に出来ることは、

自分ではなくだれかのために“思う”ことなのかもしれない。



そこにほんの少し、人として生まれて良かったと思う。



僕は個人的には無宗教なのだけど、

“思い”を“祈り”捧げることなら、わかる気がしたんだ。




道で蝶が死んでた。

うわ。可哀相だと思ったけど、

人の一生も、人が行き交う路上と同じようなものかもしれない。

僕もいつか倒れる。いつかその時は来るから。

そのときは、

すごいスピードで歩き続けなければばらないだれかの幸せを…

自分がたいせつに思うすべての人たちを思うのだろうか。




天国ってあるのかね…そうとう高いトコにありそうだ。



路上で死んだこの蝶も、羽を広げて死んでいた。




posted by 宇野伸茂 宇野正剛 at 16:49| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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